2008年2学期講義、学部「哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」  入江幸男

大学院「現代哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」

第9回講義 (200812月16日) 

 


<前回の補足説明>

前回

クワイン批判2

クワインからの予想される反論1

反論1への批判

について次のように書きました。

 

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■クワイン批判2

言語が可能であるならば、言語が世界と繋がっているはずであり、指示を固定する定義が成立しているはずである。その定義が成立しているならば、アプリオリ言明(少なくともアプリオリで偶然的な言明)が成立しているはずである。

 

■クワインからの予想される反論とそれへの批判

反論1:<我々は、直示によって語の指示対象を固定することはできない。それは『言葉と対象』でガヴァガイの議論が示したことである。指示の「不確定性」ないし「不可測性」を克服できない限り、語の指示を固定する定義は不可能である。>

 

反論1への批判:<クワインは、場面文を言語の意味の単位とする。文を意味の基本とすることは、文の発話における焦点の違いを、意味の違いとは見なさないということである。もし「(質問発話を除く」あらゆる発話は、それを答えとすると意図の関係において意味を持つ)という主張が正しければ、クワインの主張は間違いである。>

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上の批判は、語の指示を固定する定義が可能である、ということを示すには不十分でした。そこで以下補足します。

 

補足:<言語が成り立つには、問答が必要です。そして問答が成り立つには、発話への指示が必要です。したがって、仮に言語と独立の対象そのものを指示するということが不可能であるとし、知識に関する整合説の立場を採用するとしても、整合説では、言明間の整合性を確認する必要があるので、言明に言及する必要があります。つまり、他の言明を指示することが可能でなければなりません。したがって、指示なき言語は不可能であるといえます。>なおこれはデイヴィドソンの指示の概念は不要であるという主張(’Reality without Reference’ in Truth and Interpretationにも妥当する批判だと思います。

 クワインの指示を固定する定義には少し懐疑的ですが、しかし言明への指示は可能であるし必要であると考えます。

(参考:クワインとデイヴィドソンへの批判について、拙論「発話伝達の不可避性と問答」『大阪伊大学文学部紀要』第43号、2003年)

 

§13 「アプリオリ」の新しい定義の提案

 

クリプキによれば、「必然的に真である言明」は形而上学的な概念であり、「アプリオリに真である言明」は認識論的な概念である。「必然的でかつアプリオリな言明」は、「分析的言明」と呼ばれていた。

さて、「アプリオリな言明」とは、「事実によらず真である言明」あるいは「意味のみによって真である言明」と説明されていた。

 もしテーゼ「言明の意味は、それを答えとする問との関係においてのみ確定する」が正しいとすれば、言明が真であると言えるためには、その意味が確定しなければならないので、「ある言明が真であると言えるのは、それを答えとする問との関係においてである」ことになるだろう。ここから「アプリオリ」についても次のように考えることが出来る。

「アプリオリな言明」=ある問いに対して事実に基づくことなく得られる答え

=ある問いに対して意味に基づいてのみ得られる答え

 

アプリオリとアポステリオリの区別は、認識論的な区別であり、言明が得られる仕方の区別である。もし、言明が常に問いに対する答えとして得られるのだとすれば、「アプリオリとアポステリオリの区別は、問いと答えの関係についての区別である」ということができる。

例えば、次の問いは、事実に問い合わせることなくアプリオリに答えることが出来る。

「141+72はいくらか」

この種の問いは多くの場合、その答えを用いて他の問に答えようとするときに立てられる。その他の問が、事実に問い合わせるような問であれ、そうでない問であれ、この問の答え方には関係しない。たとえば、

   「この箱にリンゴが141個あって、そちらの箱に72個あるので、一つの箱にして、その合計数を箱に書いておいてください。」

と依頼されたときに、私は、上の問いを立てる。これがリンゴであっても、ネジであっても、私は同じ問いを立てるだろう。これは算数の問題である。算数の問題は、アプリオリに答えることが出来る。

  「x票を手に入れているオバマは、あと何票手に入れたら勝利が決まりますか」

  「全体がy票だからその半分以上になるには、あとz票手に入れたら勝利です」

この問答は、経験的である。この答えを得るために途中で、次のような算数の問題を解いている。「(y/2+1)-x=?」

 我々は、経験的な問いに答えるときにも、そのプロセスの途中で、アプリオリな問答を行なっている。

 

 

■「同一の文の発話であっても、どのような問いに対する答えとして発話されるかによって、アプリオリな言明になったりアポステリオリな言明になることがある」

 

 ここでは、前回述べた「ニクソンは1970年のアメリカ大統領である」が、アプリオリな言明に理解されたり、アポステリオリな言明に理解される、という例を考えています。

 

指示を固定する定義の文が発話されるときに、つねにそれが定義の発話として発話されるわけではない。例えば、

「ニクソンは1970年のアメリカ大統領である」

これが、アプリオリなのは、この言明を、指示を固定する定義として学習した人間にとってのことである。ニクソンを彼が小さい頃から知っていた人間にとっては、この言明はアポステリオリな言明である。この違いは、次のような問答に現れる。

「ニクソンとは誰のことですか」

   「ニクソンとは、1970年のアメリカ大統領です。」

   「ニクソンとは、1970年のアメリカ大統領であった人物です。」

上の問の答えは、指示を固定する定義として発話されている。では、このとき、この発話は、返答者にとって、アプリオリな偶然的言明であろうか。もし返答者が、ニクソンを彼が大統領になる前から知っていたとすると、彼にとって、この返答はアプリオリな言明なのだろうか。彼がこの質問を受ける前には、「ニクソンが1970年の大統領である」は、彼にとってはアポステリオリな言明であったといえるかもしれない。しかし、彼が上のように返答するとき、彼はここで指示を固定する定義を与えているのだから、彼にとってこの発話は「アプリオリな言明」なのである。質問者がこの返答を理解するときにも、彼にとってこれは、「アプリオリな言明」だといえるだろう。彼は、これを返答によって知る、つまり経験を通して知るのであるが、しかしこの言明自身はアプリオリであるといえるだろう。

 「ニクソンは、1970年に何をしていましたか」

   「ニクソンは、1970年のアメリカ大統領でした」

 

上の問の答えは、「ニクソン」の定義によって、ニクソンを1970年のアメリカ大統領として知っていた者が答えるときには、彼にとってアプリオリな言明である。そうでないものが、このように答えるとすれば、それは経験的な言明である。上の問いを問うた者は、「ニクソン」を1970年のアメリカ大統領であるという定義ではなく、別の定義によって学んでいるはずであるから、質問者が、この答えを理解するときに、この言明は、彼にとっても伝聞によって知られるアポステリオリな言明である。

 

ある言明が、語の指示を固定する定義として用いられるか、そうではないかは、問答のコンテクストに依存している。つまり、同一言明は、問答のコンテクストが異なれば、アポステリオリにも、アプリオリにもなる。

 

 

■「同一の文の発話であっても、どのような問いに対する答えとして発話されるかによって、必然的な言明になったり偶然的な言明になることがある」

 

クリプキの挙げている例で説明しましょう。

「アリストテレスは、プラトンの下で学んだ最も偉大な男である」が同義語を与える定義として使われるとき、この言明は、アプリオリで必然的な言明になります。別の可能世界では、別の男がプラトンのもとで学んだ最も偉大な男であるかもしれないが、その世界では、その別の男が「アリストテレス」と呼ばれる音になり、この定義の言明は、「アプリオリで必然的な言明」であることになる。

もしこれが指示を固定するためだけに使えば、我々は固有名「アリストテレス」でこの世界でプラトンの下で学んだ最も偉大な男を指示することになり、その男が、他の可能世界で、プラトンの下で学ばなかったとしてもその男を「アリストテレス」と呼ぶことになる。したがって、この指示を固定する定義は、「アプリオリで偶然的な言明」である。(参照、『名指しと必然性』訳、p.66)

 

 

 

 

■問「ある命題が、同じ問いに対する答えとして発話されていても、それに答える複数の仕方があるときには、ある場合にはアプリオリな返答であり、ある場合にはアポステリオリな返答であることとがありうるのか?」

 

例えば、「141+72はいくらか」という問いに答えるときに、自分で計算して答えるときの答えは、経験によらずに得られたアプリオリな言明であり、計算機で答えるときの答えは経験による言明である。しかし、そのときその言明はアポステリオリな言明であるとは、クリプキは言わない。(参照、『名指しと必然性』邦訳、pp.39-40)。そこで、彼はつぎのようにいう。「したがって、「アプリオリに知られうる」は、「アプリオリに知られねばならない」を意味しはしないのである。」(邦訳p.40)ここで彼は<「アプリオリな言明」とは「アプリオリに知られうる言明」である>といいたいのである。計算機で答えたときの答えは、経験によって得られているが、それは「アプリオリに知られうる言明」であり、それゆえに「アプリオリな言明」だというのである。

 

これは賢明な提案かもしれない。なぜなら、計算機を使って計算することが経験的であるなら、そろばんを使うときはどうか、紙と鉛筆を使うときはどうか、九九の記憶に頼るときはどうか、などをかんがえると、アプリオリに知られていると、アポステリオリに知られているの境界が曖昧になると思われるからである。

 

「境界が曖昧であれ、区別があることは確かである」といえるなら、上の問いには、「イエス」と答えられる。しかし、「境界が曖昧であるので、区別そのものが無効である」というべきなら、上の問いには、「ノー」と答えなければならない。しかし、このときには、アプリオリとアポステリオリの区別の無効化は、同一の問いと同一の返答文との関係にとどまらず、さらに拡張する可能性がある。

(これを詰めることは、今後の課題とする。)

 

 

        §13 同一律とはなにか

ここでは、「論理法則とは何か?」を考えるために、その一事例として「同一律とは何か?」を考えてみよう。

 

問1:同一律とはなにか。

ジャポニカの項目「同一律」の説明での、吉田夏彦氏の説明は次のとおりである。

 

 the law of identity 英語 Satz der Identitaet ドイツ語

  伝統的論理学が根本法則の一つとしたもので「aはaである」という形式で表される。このとき、aのところに代入されるのは名前で、「ライオンはライオンである」「3は3である」などが同一律の例となる。これを単なる同語反復とみる説もあり、別の哲学的解釈を与える立場もある。現代論理学では「a=a」という形の同一性の公理がこれに対応するが、「AならA」(Aのところに入るのは命題)の形式の仮言文のことを同一律とよぶ場合もある。(吉田夏彦)」〈 (C)小学館

 

 同一律は、he law of identity 英語 Satz der Identitätの翻訳語である。英語は、「同一性の法則」であり、「(何かに関して)同一性が成り立っているという法則」であろう。ドイツ語は、「同一性の命題」と言う意味なので、<同一性を表現する命題>のことと考えることが出来るが、その命題が、全称命題であり、真な命題として主張されているのならば、それは、英語と同じく「(何かに関して)同一性が成り立っていることを主張する法則」だと考えることが出来る。

 

問2:同一律とは、どのような命題か?

同一律は、上記のような法則に対する名前であって、法則そのものではない。たとえば、「万有引力の法則」というのがある法則の名前であって、その法則そのものではないのと同様である。

 では、具体的には、法則はどのような命題になるのだろうか。上の吉田夏彦の説明によれば、「a=a」(同一性の公理)とか、「AならA」(Aのところに入るのは命題)と表現されるということであり、これについては、歴史的にも多様は命題が主張されてきた。もっとも一般的な表現は、「AはAである」(Aには名詞ないし名詞句が入る)であろう。

 では、これが法則であるというのは、次のような意味であろう。「なにであれ、もし「A」が名詞ないし名詞句であるのならば、「AはAである」がつねに成り立つ」

 この法則によって、次のような命題が成り立つ。

「BはBである」もし「B」が名詞ないし名詞句ならば、なりたつ。「犬は犬である」「この犬はこの犬である」「ポチはポチである」これらも同様に成り立つ。

「私は私である」はどうだろうか。「私」は人称代名詞であるので、名詞の一種と見なすことができるので、これも成り立つ。「ここはここである」はどうだろうか。「ここ」は名詞ではなく、指標詞とよばれる。しかし、指示代名詞の一種と考えれば、これもまた名詞の一種である。つまり、もし「A」が何らかの対象を指示する語句であれば、「AはAである」は常に成り立つ。

「AはAである」が同一律であるとすると、これらは、法則そのものではなくて、法則の適用事例である。ただし、ドイツ語のSatz der Identitaetは、これらの全ての命題についても、述語付けられる。つまり「ここはここである」は同一命題である、といえるだろう。

 

ところで、同一律は、「AAである」と表現してもよいが、「BBである」と表現してもよいとすると、「AAである」もまた、同一律の適用事例の一つなのではないだろうか。「犬は犬である」の「犬」の指示対象は確定している。「私は私である」も様々な指示対象をとるが、しかしその使用のコンテクストにおいては、指示対象は確定する。それに対して「AAである」の「A」はメタ記号である。したがって、それは法則になるように思われるのだが、しかしメタ記号もまた、「BはBである」のように複数可能である。もちろん、メタメタ記号を考えてもよいが、それも複数可能である。

 同一律は、「AAである」と表現してもよいが、しかし、「BBである」と表現してもよい。

 

(■規約主義のパラドクスとの関係

もし「AAである」を法則だとすると、それ以外はその適用事例になる。しかし、そのとき、その適用について、規約主義のパラドクスが生じて、適用について説明できない。あるいは、それらが適用事例であることが説明できないという問題が発生する。

 この問題は、実は「AAである」を法則だとすることに基づいているのだが、しかし、そのこと自体に問題の根があるのではないか。つまり、「AAである」を法則であると考えることが出来ないのではないか。それは、それを究極的に根拠付けることが出来ない、と言う理由によるのではない。そのことを無視して、規約によって決めることにしてもよいのだが、しかし、法則をじつは「AAである」のような具体的な命題とみなすことに、問題があるのではないだろうか。

 「法則は、命題知ではない」というべきである。さもなければ、規約主義のパラドクスを解決することが出来ない。「法則は、命題知ではなくて、技能知なのである。」

 

(最終試験は、レポートにします。講義内容に関係する問題を自由に取り上げてください。4000字。締め切りは2月上旬。詳しくは来年にお知らせします。)  



よい年をお迎え下さい。